時系列シャッフルによって失われるもの

時系列シャッフルによる時間的、空間的断絶は、各話数ごとの連続性の断絶と同義です。つまり、シリーズものに要請される一貫性を、視聴者に向けて予め放棄できたわけです。

「各話数ごとの連続性」という視点が興味深い。
シリーズものには「各話数ごとの連続性」に依存する面白さというのがあると思うんだけど、時系列シャッフルによってそれが見え難くなってしまったのかも。どの回もすごく質が高くて面白かったにも関わらず、一つの作品としての『涼宮ハルヒの憂鬱』が好きになれなかった理由の一つは「各話数ごとの連続性の断絶」にあるのかもなー、と思った。
僕がアニメオタクとして一番興味がある部分は絵コンテなんだけど、絵コンテのコンテはコンティニュイティ(continuity:連続性)の略なわけで。「連続性」にはこだわりたい。

仮説:感情移入には二つのタイプがある

感情移入には二つのタイプがあるんじゃないかという仮説を検討してます。一般によく言われる「自己を投影する」タイプの感情移入以外の、なにか別の方法があるような気がしてならないんですよね。(それを「感情移入」と呼んで良いのかは分からないけど)
僕自身まだ考え中なので結論は出せないんだけど、どうやら僕と似たことを考えている人も少なくないらしい。
ということで、それらしい発言をいくつかピックアップしてみた。

私には、新しい伝奇小説の読者の多くにとって、それは自己を投影する場であるというよりも、ある種の「鑑賞」の対象であるように思われる。今や、新しい伝奇小説の読者たちは主人公という特定のキャラクターに感情移入するのではない。抽象的な言い方になるが、彼らは望めば比較的容易に複数の登場人物に感情移入することができるし、物語の展開される場そのものに対する感情移入を見いだすこともできる。

これらは、見る子どもたちが超人的な主人公に直接感情移入する(自分が主人公になった気分で作品の世界に没入する)のではなく、他者としての主人公に<おもいやり>的に感情移入する作品であって、その主人公との適度な距離が「笑い」をも呼び起こすのである。

この討論で、「主人公への自己同一化の第一層・第二層」という興味深い概念が生まれた。女性がハーレクインを読むときは第一層、ボーイズラブを読むときは第二層、という話である。そして、「天地無用」において、読者・視聴者は第二層の自己同一化をしている、と考えられる。

ただ男性向けに限らずやおいネタでもA×Bという二人の組み合わせを「端から眺める楽しみ」を取るのか、AかBを自分と仮託して妄想して楽しむのと双方の考え方、楽しみ方があるわけで。どちらが深いとか浅いとかではなく単に好みの問題ではないかと。お人形遊びとごっこ遊び、どっちが上かと言うわけではあるまい。